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『世界でひとつの彼女』Her 人間はディープラーニングで進化できない存在か


アンドロイドが登場するSFドラマは、物語の展開が決まっている。自分のことを理解してくれる“機械”に恋をしてしまうのだ。そしてアンドロイド自身も、いつしか感情らしきものを持つようになる。だがもちろん、人間とアンドロイドの間には超えようのない溝があるから、物語は悲劇的な結末を迎えることになる.

「Her」の新しさは、相手がアンドロイドではなく、“肉体”を持たない“声”だけの存在であることだ。コンピュータの中の人工知能の彼女は、ビッグデータを基にディープラーニングで日々進化してゆく。ビッグデータの中には人間の感情も膨大に蓄積されているから、当然のことながら人間的な感情を巧みに表現できる。

でもそれは本当の感情なのだろうか? というのが、この映画のテーマである。もともと人間だって、電気回路で出来た脳で動いているのだから、一種の人工知能と言える。偉そうに「感情」などと言っているけれど、ただの電気信号の組成に過ぎないのだ。だとしたら、人間と人工知能に、どんな違いがあるのだろう?

主人公を演じるのは、ホキアン・フェニックス。凡庸になりがちな物語展開を救っているのは、彼の不思議な存在感ゆえである。どんな映画に出ていても“場違い”な印象を与える独特の雰囲気が、この映画でも全開。いい意味で、物語の座り心地を悪くさせてくれる。
 
人工知能学者によっては、コンピュータが人間を超越するシンギュラリティなどやってこないと言う。人工知能に劇的な進化をもたらしたディープラーニングは、そもそも人間があらかじめ正解を与えることで成立するシステムだからだ。


けれどもこの映画のように、人工知能が学習によって人間以上に適切に感情を表現することは、もはや十分に可能だ。哀しいときや辛いときに、寄り添ってくれる“声”が側にいたら、人間はそれ以上の何を求めるだろう? だが、悲劇はそれでもやってくる。なぜなら人間は、人工知能のように学習によって進化できる存在ではないからだ。

『心中天網島』The Love Suicides at Amijima (or Shinjū Ten no Amijima) 1969年のクリエイティビティはもう戻ってこない

「心中天網島」は、篠田正浩が1969年に映画化した近松門左衛門の心中物である。その年のキネマ旬報ランキング1位で、制作・配給は、今は亡きATG。前衛演劇、前衛映画、ATGと、1969年の匂いがプンプン漂う作品だ。貧弱なNetflixの映画ラインナップに、どうしてこの作品が入っているのか謎である。

この映画は、観客の感情移入を全く期待していないようだ。まずオープニングからして気分を削ぐ。浄瑠璃の準備をしている舞台裏映像に、監督が誰かとセットの打ち合わせをしている音声が被さってくるのだ。「あそこにロケハンしてきたんですけどね…」みたいな会話を我々は聞かされる。

劇中では、ごく一部の屋外ロケ以外は舞台の書き割りのようなセットの中を、黒子と役者が様式的に行き来して、そこにリアリティはない。観るものが物語に入り込もうとすると、強いライトによる光と影とか、やけにクローズアップされる黒子の存在とか、武満徹の不穏な音楽が邪魔をする。

役者は、主演に岩下志麻と中村吉衛門、脇に藤原鎌足、小松方正、左時枝など、スターや実力派を揃え、重厚な布陣である。それがこの映画のトンガリをやや緩和させている。とはいっても、主役の二人が舞台っぽい大げさな芝居なので、やっぱり感情移入しにくいのである。篠田監督は、愛妻・岩下志麻に一人二役という難題を与え、彼女はそれに一所懸命応えようとしている。しかし彼女には余裕がなく、いっぱいいっぱいのように見える。私は岩下志麻を上手い女優だとは思わないが、監督の妻ということで使い易かったのだろうから、これには文句は言うまい。ただ、若尾文子あたりだったらもっとエロくてリアルだっただろうなーと妄想してしまう。

それから、かなり寒い時期に撮影されたのだろうか、役者が薄着なのに吐く息がとても白くて、それが気になってしかたがなかった。野外(しかも墓地)で男女の営みを行う場面があり、岩下志麻の太ももが露わになったりするのだが、エロいというよりなんだか気の毒になってしまい、これまた物語に全然入り込めないのだ。そういえば、冒頭で篠田監督は「イイ感じの墓が見つかった」的な事を嬉々として喋っていたので、絶対にそこでロケしたかったのだろうが、残念ながらこれは演出ミスであった。

いろいろと厳しいことを書いてしまったが、2017年の今、こんなけったいな実験映画を豪華出演陣で作るのは不可能だ。1969年は今よりもずっと自由でクリエイティブな雰囲気があったのかな、と、ちょっとうらやましく思う。

『殺人者への道』冤罪事件?を追った迫真のドキュメンタリー Making a Murderer: Is he guilty or not?

まず、日本の警察・司法関係者全員に、このドキュメンタリーの視聴を義務付けて欲しいと本気で思う。捜査とは何か、司法とは何かについて、これほど分かりやすく、面白く、問題提起をしている作品を他に知らないからだ。

アメリカ・ウィスコンシン州の片田舎に住むスティーヴン・エイヴリーは、強姦罪で刑務所に入れられた。やがて科学技術が進歩し、DNA検査によって潔白が証明され、18年後の2003年に釈放された。彼は一躍時の人となり、彼の名前が付いた法案が可決されるほどまでになったが、2005年にまたもや逮捕されることとなる。今度は殺人罪で。

この作品は一貫してスティーヴンが無実であるという立場で作られており、そのスタンスに賛否両論あるだろう。しかし、その立ち位置云々は抜きにして、下手なフィクションを軽く凌駕する面白さなのだ。

制作者は10年に渡る、関係者の証言、通話記録、証拠写真、尋問ビデオ、法廷記録、文書等々、膨大な量の素材を緻密に編集し、手に汗握る「サスペンスドラマ」を作り上げた。私達は、1話進むごとにスティーヴンに感情移入し、「狡猾な」警察や検察に腹を立て、弁護士を心から応援するようになっていく。

警察は、スティーヴンの甥ブレンダンにも共犯の罪を着せようとして、強引な取り調べを行う。これを観ていて、志布志事件を思い出した。公職選挙法違反の冤罪事件で、罪の重大さではエイヴリー事件に及ばないが、警察が最初から犯人を決めつけて、誘導的で強引な取り調べを行った点は同じである。他に、厚労省の村木厚子局長が、大阪地検によって無実の罪を着せられたことも記憶に新しい。日本では、取り調べや裁判の様子が可視化されていないため、アメリカよりも冤罪事件は多いかもしれない。

アメリカでは「殺人者への道」が大変な反響を呼び、スティーヴンの恩赦を求める署名が20万件集まったという。ここまで真に迫ったドキュメンタリーを作ることができるのは、取り調べや裁判が可視化され、何もかもが記録に残されているからだ。また、みな顔出しでよくしゃべる。映像や音声の素材は本当に豊富だ。しかし、何もかもが記録されているのにもかかわらず、冤罪は起こりうるということにまた、恐ろしさを覚える。


スティーヴンは、町で他者と交流せず孤立しているエイヴリー家の一員だ。若いころには逮捕歴が複数回、収監されたこともある鼻つまみ者でもある。彼のそうしたバックグラウンドが、町の人々や警察に先入観を持たせている。さらに、警察・検察は、スティーヴンの冤罪が証明されたことでメンツを潰されている。翻って私達は、果たしてそうした先入観や個人的な恨みを排除して、公正に物を見ることができるだろうか?

ジャーナリズムも問題だ。判決が下されるまでは推定無罪のはずなのに、マスコミは犯人と決め付けてセンセーショナルな報道をする。これが陪審員の心証にも影響している。日本でもこの状況は全く同じである。本当に様々なことを考えさせられる作品だ。

この事件は現在進行形であり、それが作品の話題性に拍車をかけている。シーズン2も作られることが決定しているという。

『最後の追跡』ー古き良きアメリカ西部劇の香り Hell or High Water : Scent of a good ol' Western


古き良き西部劇の香り漂う作品。コーエン兄弟の「ノーカントリー」に似ているという感想が多いようだが、私はむしろ30~70年代の西部劇を現代風にうまく味付けした、という評価である。

テキサスの貧しい白人兄弟は、自らの土地を銀行の差し押さえから守るため、資金調達方法として銀行強盗を繰り返している。その土地には石油が眠っていて、どうしても守りたいのだ。彼らを追うのは、ジェフ・ブリッジス率いる退職間際の保安官と、アメリカ先住民の血を引く相棒だ。

つまり、インディアン(ここでは敢えてこう表現させていただく)から奪った土地を、銀行(背後には石油会社)に奪われそうになり、取り返そうとしているところをまたインディアンから追われている、ということになる。

トランプを支持するようなプアホワイトは、強盗の兄弟に感情移入するかもしれない。貧しくて、乾いていて、埃まみれのテキサス。人けがなく、時が止まったような街角。ここから一生抜け出ることができないどうしようもない焦燥感は、日本人の私にも伝わってくる。そして、その街角から「真昼の決闘」のゲイリー・クーパーが今にも現れそうな高揚感も同時に感じるのである。古き良きアメリカへの郷愁と、やるせない現代社会への怒りがないまぜになって、貧しい白人たちの琴線に触れるのではないかと想像する。

兄弟が追いつめられる過程で、自警団が銃を持って彼らを追い回すシーンは、とてもアメリカ的だ。自分の敵は自分で仕留めるという、自主自立の精神。かの地では、銃で自らを守るという伝統が遺伝子レベルで根付いていて、それを取り上げるなんて不可能なのだということを思い知らされる。

クライマックスでは、ジェフ・ブリッジスがスターらしく大仕事をやってのける。ジェフ・ブリッジスという人は本当にうまい役者だ。怒りと悲しみを押し殺しながら、老体を引きずって犯人へと向かっていく様が、あまりにもリアルだ。この映画に出演するただ一人のスターとして、役目は十分に果たしている。




Netflixオリジナルの本作品は、アカデミー賞4部門にノミネートされ、興行的にも成功を収めた佳作である。今後は、映像配信会社が映画製作の主役となっていくのかもしれない。

『センス8』Sense 8  ここにいるけど、そばにいない。ここにいないけど、そばにいる。


かつて、南国でしばらく暮らしたことがある。経済格差が著しい発展途上国の首都。昼寝から汗だくで起きると、中庭に出て井戸水でTシャツを洗濯した。煙草をすいながら、ぼんやりコーラを飲んでいると、塀の上を極彩色のトカゲがゆっくりと横切る。

スコールがやってくると、道路は水浸しになった。自転車に乗っていて、水たまりの底に隠れた深い穴に気づかず、前輪がとられて空中で一回転したことがある。ネットもない時代、だれともつながっていなかった。寂しいとは思わなかったが、救いは必要だった。

ここにいるけど、そばにいない。ここにいないけど、そばにいる。どちらが良いかとたずねられたら、圧倒的に後者になるだろう。たとえここにいなくても、そばにいてくれる存在だけが、救いになるからだ。だがもしその存在が、実体を伴ったらどうなるのか? 
 
物語のはじまりは、ちょっと取っ付きが悪い。だが「マトリックス」のウォシャウスキー姉妹が手がけたのだから、きっと面白くなるはずだ、と思いながら見続けると、案の定、ストーリーは重層化しながら、独特の世界観が、みるみる立ち上がって来る。ああ、これは単なるSFじゃないんだと思う。

このドラマは8人の群像劇だ。接点がないところからはじまるので、多少混乱するのも無理はない。舞台は、ナイロビ、ソウル、サンフランシスコ、ムンバイ、ロンドン、ベルリン、メキシコ、シカゴで、それぞれが、それぞれの人生で、葛藤を抱えている。

やがて、その8人は次第に、ここにいるけれど、そばにいない存在に、倦みはじめる。そしていつしか、ここにいないけど、そばにいる存在に、勇気づけられてゆくのだ。ときには、淡い恋心も抱くようになる。“ここにいない”からこそ、その絆は純粋なのだ。

8人のキャラクターがそれぞれ魅力的だ。なかでも韓国の女優ペ・ドゥナ(Bae Doona)演じる、ソウルの財閥の長女サン(Sun)のカンフーアクションは“胸がすく”思いだ。

なにかに似ていると思う。石ノ森章太郎の「サイボーグ009」だ。ふだんは世界各地に散らばっている、特殊な能力を持つ仲間たちが、いざ危機が起こると集まって敵と対峙する。ただし物理的には、そばにいない。なんて困難な設定。脚本家の苦労がしのばれる。

「サイボーグ009」がそうであったように、彼らには「敵」が必要になる。ともすれば、その「敵」は陳腐なものになりがちだが、今のところ危ういレベルで、その通俗的な「罠」を免れている。願わくばシーズン2も、その「敵」はSF的なガジェットとしての位置にとどまることを。

と、不安ながらも期待していたら、シーズン2で打ち切りの情報が。と思ったら、世界中のファンからの熱い要望で、2時間の完結編が製作されるらしい。なので、安心してシーズン2を見ることにしよう。