『マインドハンター』Mindhunter 第1シーズン part2

1話については、ツカミはOKだったが、その後地味な場面が続いたので結構脱落者が出たかもしれない。しかしこのドラマも他の優れたドラマと同様に、2話から面白くなる。更に5話あたりからは、面白さに加速がつく。

まったりと終った1話だったが、2話では、一転、羊たちの沈黙を髣髴とさせる緊張感あふれる場面が描かれる。といっても、こっちのほうが元祖なのだ。そもそもこのドラマは「元FBI捜査官のジョン・ダグラスの経験をもとに書かれたノンフィクション『FBIマインド・ハンター―セックス殺人捜査の現場から』を原作としており、ふたりのFBI捜査官が拘留された連続殺人鬼による未解決事件に乗り出すといったストーリー(ギズモードより)」ということで、実話を基にしている。それにしても『FBIマインド・ハンター―セックス殺人捜査の現場から』って、いかにもセンセーショナリズムを狙った日本語タイトルだなーと思ったら、やはりそうだった。原題は「Inside the FBI’s Elite Serial Crime Unit」で、「セックス殺人捜査」なんて言葉は入っていない。だいたい何なの「セックス殺人捜査」って。意味不明。

話を戻そう。このドラマのキーパーソンは、FBI行動科学課(Behavioral Science Unit)の若手とベテラン二人の捜査官であり、バディものとしても楽しめる。若手捜査官ホールデンを演じるのはジョナサン・グロフで、いろいろ出ているようだが、まだそれほど知られていない。相棒のビルはホルト・マッキャラニーという役者で、彼もまた無名といっていいだろう。ちなみに、ビル役のモデルは、あの、ロバート・K・レスラー氏である。日本に「プロファイリング」という言葉を初めてもたらした人ではないだろうか?彼がどのようにプロファイリングの手法を確立してきたのか、という視点で見ると、またこのドラマが面白くなるのである。

その他、出てくる役者のほとんどが無名だが、端役に至るまでレベルが高いので、違和感を感じることなくドラマに集中できる。特に、シリアルキラー界の大物エド・ケンパーを演じている俳優は秀逸で、筆者が以前「ブギーナイツ」でフィリップ・シーモア・ホフマンを初めて見たときに匹敵するぐらいぞっとさせる演技を披露していた。いつも思うのだが、アメリカの役者(イギリスもだが)って、層が厚すぎる。日本人の役者は本当に彼らをよく見て勉強して欲しい。


行動科学課のホールデンとビルは、犯罪者からの聞き取り調査をしていく過程で反発したりトラブルにあったりしながらも、研究を蓄積させていく。これはとても地道な作業で、そもそも収監されている囚人から話を聞くだけであるから、派手な銃撃戦やカーチェイスなど皆無である。従って、基本的に地味な題材のドラマであり、これを飽きさせないようにするため?に、それぞれの捜査官の人間模様なども描かれている。しかし、捜査官のプライベートを描くパートになると途端に面白味が半減する。原作者はニューヨークポストのインタビューでこう言っている。「これまでの映画やドラマは、正確なFBIプロファイラー像を伝えていないので、苛立ちを感じていた。これまでの映画は観るに堪えないものだった。FBI捜査官がやたらめったらに銃を抜いて、ドアを蹴破って、捜査を乗っ取る……。実際には、警察官と一緒に事件の捜査を行う場合、FBIはもっとプロアクティブな技術の開発を支援するのに。このドラマは私の著書に基づいて忠実に再現されており、とても嬉しい。まるで自分の人生をもう一度最初からやり直しているような気分だよ(海外ドラマboardによる翻訳)」確かに仕事を描いているパートはとても面白いしリアリティがあるので、シーズン2からはぜひお仕事パートを増やしていただきたい。それから、1、2話と9、10話をデビッド・フィンチャーが演出しているのだが、やっぱり彼の演出はいい。彼独特の屈折したユーモアがそこはかとなく感じられて。



『マインドハンター』Mindhunter 第1シーズン part1


待ちに待ったデビッド・フィンチャーの新作ドラマ。1970年代、FBI犯罪心理捜査の黎明期を描く(なんだか70年代に黎明期を迎えたものが多いんだな。ヒップホップとか)。とりあえず1話目を見終わったので感想を書きたい。

ドラマはいきなり緊迫の犯人説得シーンから始まる。そして、まさかのモザイクなし全裸カットがぶっこまれますので、未見の方は期待して見ていただきたい。掴みはオッケー。

その後は一転、若きFBI心理捜査官の、青春映画のような奮闘記となる。特別な事件も起こらず、物語は地味に進んでいくが、これがなかなか良いのである。70年代の空気感を非常に品よく伝えていて、まるでハル・アシュビーの映画を観ているようだ。劇中にアル・パチーノの「狼たちの午後」が結構長い尺で出てきたりもして、70年代映画好きにはたまらない。デビッド・フィンチャーは本当に上手い、そして格調の高い演出をする監督だ。しかし、派手で展開の速いドラマに見慣れた人には少し退屈に感じるかもしれない。最初に全裸シーンがあっただけに、尻すぼみだと思われても仕方あるまい。おっと、全裸とか尻とか下品で申し訳ない。フィンチャーの演出は上品なので勘弁していただきたい。

2話以降が非常に楽しみだ。その感想は後日改めて。

『ゲットダウン』The Get Down 1話しか見ていませんが何か?


70年代後半、ヒップホップの黎明期を描いているとのことで、その頃のブラックミュージックが大好きな私は早速このドラマに飛びついた。だが、監督がバズ・ラーマンということを知り、一抹の不安も抱いた。彼は白人だし、作風がポップすぎる、軽すぎる。

蓋を開けてみたら、やはりラーマンらしく、きらびやかで、カラフルで、ポップで、テンポがいい。ストーリーは、うぶだけどライムの才能のある少年が、やはりうぶだけど歌の才能があって美しい少女と恋をし、仲間と音楽を始め、大人の階段を上る(笑)というもののようである。当時の荒れたサウスブロンクス、ディスコ、衣装を(たぶん)大金をかけて再現、音楽と相まってミュージカルのようなゴージャスさがある。

しかし、ラーマンの演出は残念ながら私の好みではなかった。好み云々は抜きにしても、このドラマのキモは、韻を踏んだリズミカルなセリフにあると思うのだが、ほとんどの日本人はそれを堪能できないだろう。せめて、黒人音楽をよく分かっている監督、例えばスパイク・リーとか、タランティーノとか、あるいはMVディレクターのHype Williamsあたりが演出していれば、映像・音楽共により「黒っぽさ」が出たのではないだろうか? ラーマンの演出は万人受けしようとして失敗しているようにも感じるのだが… ちなみに、白人のヒップホップスター、エミネムを描いた「8 Mile」は傑作だったが、監督はやはり白人のカーティス・ハンソンである。

2話以降は、ヒマで死にそうなときにでも見てみようかと思う。いつのことになるかわからないが。


『ブラック・ミラー』Black Mirror シーズン2 第1話「ずっと側にいて」

英国で制作されている、1話完結のオムニバスストーリー。近未来の世界を描いたSFなのだが、どれも秀作でクオリティが高い。単に奇をてらうのではなく、英国らしく人間の心にグサりと一歩踏み込んだ、毒のあるオトナのSF世界が広がっている。

そのなかで、シーズン2の第1話「ずっと側にいて」が心に残った。

恋人が事故死、その哀しみから逃れられない女性のもとに、ある日、恋人そっくりの人形が送られて来る。肌色の肉みたいな塊をお風呂に入れると、むくむく膨らんで生前の彼そっくりの存在になる。お風呂から立ちあがり、ひとりで歩き出し、彼女に話しかける。

そのアンドロイドには、生前の彼のデータが蓄積されており、話しかけると彼そっくりの反応が返って来る。彼女は混乱する。驚きがあり、嬉しさがあり、癒しがあり、猜疑心があり、苛立ちや怒りがあり、虚しさがあり、怖さがあり、絶望があり、許しがある。

彼ではないが彼のようにそっくりな彼を、どのように受けとめればいいのか。それがこのドラマのテーマなのだが、それは彼女自身がどう生きて行くかという問いかけでもある。彼が事故死した後に、彼の子を宿していることがわかるので、苦悩は切実なのだ。

彼に食事は必要ないが、食事が必要なふりはできる。眠る必要はないが、眠るふりはできる。彼にセックスは必要ないが、きちんとセックスもできる。だとしたら、生前の彼となにがどう違うのだろう? そもそも彼と暮らすことは正しいことなのか。

映画でも小説でも、この手のアンドロイドもののラストシーンは決まっている。映画『世界でひとつの彼女』もそうだった。だがこのドラマの結末は(めったにないことだが)新鮮で、意外性がある。その結末を知るだけでも、この短いドラマを見る価値はある。


なぜなら、選択できない選択を迫られ、彼女くだした結論は、私たちの日常の迷いを断ち切るヒントになっているからだ。

『ジプシー』gypsy ナオミ・ワッツが好きならば見る価値はあるのか?

フリートウッドマックのスティーヴィー・ニクスの歌う「ジプシー」がタイトル曲として流れる。彼女は『アメリカン・ホラー・ストーリー』でもある種のイコン、歌姫として登場していた。なぜいまフリートウッドマック? 製作者世代の憧れなのだろうか?

その「ジプシー」の発表は1982年だが、そのバージョンではなくドラマのためにアレンジされたオリジナルのようだ。スティーヴィー・ニックスの声質は変わらない。ちょっとスローになって、とてもいい感じだ。タイトルバックの映像もきれいで、素晴らしい。



その時点で、つまりオープニングにおけるスティーヴィー・ニックスの歌と映像の時点で、このドラマの品質がある程度、担保されていると感じられる。なのに…。

主人公を演じるのはナオミ・ワッツ。彼女で思いだすのは、奇才ミヒャエル・ハネケの問題作『ファニーゲームU.S.A』への出演だ。少年たちに家族が拉致され、救いようの無い結末に向かって突き進む作品だが、その主婦役として迫真の演義を見せていた。

今回のドラマの役どころは、心に闇を抱える心理カウンセラー。夫と一人娘がいて、一見セレブな生活を送っているが、カフェで知り合った若い女性に興味を惹かれ、カウンセリングを利用して恋敵である彼女の元カレを追い込んでゆく。共感しにくい役柄で、戸惑う。

テーマはキャリアを持つ中年女性の自分探し? そう言ってしまえば身も蓋もないが、このドラマがいまいち盛り上がらないのは、彼女の心の闇がわりと凡庸なことにある。心の闇は相手との葛藤の中で深まるものだが、その相手の若い女性の行動も凡庸なのだ。

そういうわけで、期待していたわりに案外な内容なのだが、ナオミ・ワッツのファンならば、彼女独特のどことなく儚い感じの幸福感というべき表情に癒されるかもしれない。

ちなみに、ナオミ・ワッツの夫役を演じているのはビリー・クラダップ、『エイリアン・コヴェナント』で船長役として登場していた。エイリアンの新作も期待していたわりに案外な映画だったので、共演者ともどもいまいちな感じが拭えない印象のドラマになってしまった。と思っていたら、シーズン1で打ち切りの報道が。やっぱり…。