『最後の追跡』ー古き良きアメリカ西部劇の香り Hell or High Water : Scent of a good ol' Western


古き良き西部劇の香り漂う作品。コーエン兄弟の「ノーカントリー」に似ているという感想が多いようだが、私はむしろ30~70年代の西部劇を現代風にうまく味付けした、という評価である。

テキサスの貧しい白人兄弟は、自らの土地を銀行の差し押さえから守るため、資金調達方法として銀行強盗を繰り返している。その土地には石油が眠っていて、どうしても守りたいのだ。彼らを追うのは、ジェフ・ブリッジス率いる退職間際の保安官と、アメリカ先住民の血を引く相棒だ。

つまり、インディアン(ここでは敢えてこう表現させていただく)から奪った土地を、銀行(背後には石油会社)に奪われそうになり、取り返そうとしているところをまたインディアンから追われている、ということになる。

トランプを支持するようなプアホワイトは、強盗の兄弟に感情移入するかもしれない。貧しくて、乾いていて、埃まみれのテキサス。人けがなく、時が止まったような街角。ここから一生抜け出ることができないどうしようもない焦燥感は、日本人の私にも伝わってくる。そして、その街角から「真昼の決闘」のゲイリー・クーパーが今にも現れそうな高揚感も同時に感じるのである。古き良きアメリカへの郷愁と、やるせない現代社会への怒りがないまぜになって、貧しい白人たちの琴線に触れるのではないかと想像する。

兄弟が追いつめられる過程で、自警団が銃を持って彼らを追い回すシーンは、とてもアメリカ的だ。自分の敵は自分で仕留めるという、自主自立の精神。かの地では、銃で自らを守るという伝統が遺伝子レベルで根付いていて、それを取り上げるなんて不可能なのだということを思い知らされる。

クライマックスでは、ジェフ・ブリッジスがスターらしく大仕事をやってのける。ジェフ・ブリッジスという人は本当にうまい役者だ。怒りと悲しみを押し殺しながら、老体を引きずって犯人へと向かっていく様が、あまりにもリアルだ。この映画に出演するただ一人のスターとして、役目は十分に果たしている。




Netflixオリジナルの本作品は、アカデミー賞4部門にノミネートされ、興行的にも成功を収めた佳作である。今後は、映像配信会社が映画製作の主役となっていくのかもしれない。

『ナルコス』シーズン1、2 度肝を抜くコロンビア麻薬王の生涯 Narcos season1 and 2, An Outrageous Druglord


このドラマを1話で断念してはいけない。私は第1話を観てがっかりし、何か月も放置してしまったのを後悔している。

「ナルコス」は、コロンビアのコカイン密売組織「メデジン・カルテル」とそのトップ、パブロ・エスコバルを描いた実録ものである。

かつてコロンビアとは、極東の地にいる日本人にとっても「麻薬がはびこる怖い国」という認識があった。誘拐が横行し、左翼ゲリラが暗躍しているというイメージもあった。このドラマは、その時代の中枢にいた麻薬王パブロ・エスコバルが、左翼ゲリラ、ノリエガ政権のパナマ、共産主義政権のニカラグア、バスク地方の過激派組織ETAなどを巻き込みながら商売を大きく広げ、コロンビア政府、アメリカ麻薬取締局(DEA)と戦う話である。

第1話はエスコバルがコカインビジネスでのし上がっていく話で、主人公とその背景のいわゆる説明回だ。だからそれほど面白くはない。第2話からアメリカDEAが登場し、本格的に話が展開していく。

当時アメリカはレーガン政権であった。彼は俳優時代の赤狩りで、マッカーシーに仲間を大勢売った人物であり、大の共産主義嫌いである。そのため、CIAなどには南米の麻薬取引ルート撲滅よりも、共産主義者撲滅の方に多額の予算が行っていたらしい。ドラマでは、DEAによる予算獲得の苦労が描かれている。結局は、エスコバルの存在があまりにも大きくなりすぎて、予算も十分に回ってくるようになるのだが。

エスコバルはマイアミを拠点として稼ぎまくり、1989年のForbes誌で世界の富豪7位に選ばれ、一時は大統領を目指して国会議員になったほどの野心家であった。しかし、過去の悪事が暴かれて議員を辞職させられ、反カルテルの新大統領が当選すると、エスコバルの怒りの矛先は政府へと向かった。そして、コロンビアは血で血を洗う「内戦」へと突入する。

殺戮を繰り返したのはメデジン・カルテル側だけではない。大勢の部下を殺され、復讐心に燃えるカリージョ大佐もまた、マフィア顔負けの残忍さでエスコバルを追い詰めていく。

ドラマでは時折、実際のエスコバルの演説映像や、惨殺された遺体の写真などが挿入される。凄惨なバイオレンスシーンもこれでもかと登場する。実録ものは得てして盛り上がりに欠けがちになるが、ナルコスでは緊張感を維持しつつ、バイオレンスと人間ドラマがバランスよく描かれている。これは、エスコバルが持つ信じられないエピソードの数々を、腕のいい脚本家と演出家が上手く料理した賜物だ。

俳優陣も頑張っている。映画「トラフィック」では麻薬取締官を演じていた名バイプレイヤー、ルイス・ガスマン(Luis Guzmán)が、今回はカルテル幹部の「ガチャ」を演じている。怖い顔だがコミカルな持ち味がある彼は、緊迫したドラマに一瞬の緩みをもたらす。DEAのラテン系アメリカ人、ハビエル・ペーニャを演じるペドロ・パスカル(Pedro Pascal)は、バート・レイノルズを髣髴とさせる色気を持ちながら、男の哀愁を背中で表現できる俳優だ。

実在の麻薬王、凄惨なバイオレンス、と、地上波ではとても放送できないネタを高いクオリティで制作できるところがNetflixの真骨頂である。これからもポリティカル・コレクトネスやタブーなど無視してぶっ飛んだ作品を提供して欲しい。

『メンタリスト』The Mentalist  文庫本を読むように全151話を見続ける


サイモン・ベイカー(Simon Bakerが演じるのは、元霊能者の犯罪コンサルタント。妻と娘を殺した連続殺人鬼レッド・ジョンを追うため、カリフォルニア州捜査局(通称CBI=架空の団体)に協力、人間心理を巧みに操りながら様々な事件を解決してゆく。

アメリカCBSの大ヒットドラマで、シーズン7がファイナル。レッド・ジョンを捕えるという大きなテーマはあるものの、全151話は基本的に単発の事件を解決していくという体裁を取る。なので、大部の短編集を読むように各エピソードを楽しめる。

このドラマの売りはやはり、パトリック・ジェーンを演じるサイモン・ベイカーの魅力だろう。妻と娘を殺された過去を持ちながらも、魅力的な笑顔を振りまきつつ、難事件をいとも簡単に解決してゆく。まわりの同僚たちは、いたずら好きな彼に振り回されるが、なぜか憎めない。なぜなら、いつも彼の方が正しいからだ。

“現代版コロンボ”と言われるだけあって、毎回肩の力を抜いて、ストーリーに付き合える。陰惨な被害者の死体も、ここでは単なる記号である。だがレッド・ジョンだけは別格で、物語がいったんそちらを向くと、ドラマは俄然シリアスになる。そのメリハリが絶妙なので、視聴者はシーズンを超えて見続けることになる。

MacBookiPhoneで、海外ドラマを見続ける習慣ができたのは、このメンタリストがきっかけだ。最初はTSUTAYAレンタルのDVDで、海外出張の飛行機の中で見続け、眠れない夜にベッドの中で見続け、NetFlixに加入してからは、電車の中でも見るようになった。

まるで、文庫本で読んでいる気持ちになるのは、そのためだ。シーズン7まで続く長大な海外ドラマは、いつもの帰る場所であり、精神的な落ち着きを与えてくれる。今日の殺人事件はどんなだろう? という興味や期待が、過不足無く満たされ、謎を解き明かすトリックが、適度に脳を刺激してくれる。要するに、安心安全なのだ。

シーズン7がファイナルシーズンなのだが、NetFlixではまだシーズン6までしか配信されていない。だから、パトリック・ジェーンと上司であるテレサ・リズボンの恋の結末がどうなるのか、(もうわかっているけれど)見届けられていない。早く配信してほしい。

ちなみに、シーズン6の最終回が、「カリフォルニケーション」の最終回と、まったく同じシチュエーションでの愛の告白だった。まさか同じセットで撮影されたのか? と勘ぐりたくなるほど似ているのだが、希代のモテ男、サイモン・ベイカーとデイヴィッド・ドゥカヴニーの演技力を見比べることができるので、それはそれで興味深い。







『境界線』Bokeh 白くて清潔な起伏のないシーツのような映画

下北半島の岬で、野生の牛に囲まれたことがある。森の中の一本道で、前方と後方を塞がれた。この世界は、自分と牛だけになった。そのとき心に浮かんだのは、「ここは誰の世界なのか?」ということだった。

この映画「境界線」は、アイスランドが舞台だ。

アイスランドの風景は美しい。バケーションで訪れた若い米国人のカップルが、その美しい街や自然、名所旧跡を散策している。岩礁のある海岸、たおやかな牧草地、古びた教会や古城、間欠泉や神秘的な滝、そして巨大な湖のようなホットスプリング。

街並も、冷たい硬水で洗われたばかりのように清潔だ。彼らはその街の、こぎれいな小さなホテルに投宿する。白い壁の、シンプルな部屋。シーツも白くて清潔そうだ。

深夜、女性が目覚める。ブランドの隙間から、白夜の港を見ていると、突然まぶしい光が世界を覆う。なんの光なのかわからない。あるいは夢なのかもしれない。翌朝、カップルは目を覚まし、世界が2人だけになっていることを知る。

世界が2人だけになった理由は、明らかにされない。おそらくそれは、さほど重要なことではないのだ。彼らは戸惑いながら、その事実を受け入れようとする。無人となった街の、無人となった店舗で、食糧や水を調達し、無人となった広い家に住みはじめる。

2人は、アイスランドの美しい風景の中を彷徨いながら、なんとか着地点を見つけようとする。男は「ぼくらの世界を手に入れた」と言い、女は「わたしたちは神に見捨てられた」と言う。2人が手に入れたものが、それぞれ違うことに、2人は次第に気づき始める。

およそ、ドラマ性のない脚本をベースに、2人はただ、美しい風景の中で、眠り、目覚める。映像のフレームと音楽は、まるでテレンス・マリックの映画だ。けれど、意外と退屈しないのは、ちょっとした伏線があって、最後まで緊張感が保たれているからだ。

この世界は、ほんの少し設定を変えることで、あっという間に豹変してしまう。「境界線」が提示する、救いようのない喪失感ですら、実際に手を伸ばせばすぐそこにあるものなのだと感じられる。アイスランドの美しい風景は、その事実を増幅させる舞台に過ぎない。


ちなみにこの映画、米国では酷評されている。結末を含め、おそらく映画館で上映されるタイプの映画ではないのだろう。NetFlixだからこそ満喫できる映画なのだ。

『未知との遭遇:スタン・ロマネクの場合』 Extraordinary: The Stan Romanek Story 陳腐なエピソードが恐怖へと転化する



窓から室内を覗き見る、アーモンド型の目をしたグレーの宇宙人。ビデオカメラで撮影しているのがわかると、慌てて頭を引っ込める。このドキュメンタリーがもたらす恐怖は、そんなコメディのような映像では損なわれない。

内容は、凡庸といってよい。宇宙人による誘拐(アブダクション)、強制的な生殖行為によって生まれた宇宙人とのハーフの子ども、深夜に家の戸を叩く謎の男女3人、家の外壁を照らす謎の光と、その光で灼けた外壁を取り替える謎の修理屋、宇宙人による奇跡的な外科手術、数学や物理の知識がないのに難解な方程式を書く、等々。

宇宙人が実在するという、おびただしい証拠が提示されるが、それは全てフェイクであってもおかしくない。そして彼の周囲の人々は、ありがちなパターンを踏襲して、パートナーの女性を含めて、彼は「まともな人間」だと証言するのだ。

彼、スタン・ロマネクは、実在する人物である。インタビューに応える彼は、とても誠実そうだ。識字障害だったせいで、特殊学級に入れられ、教師からいじめられた記憶を語る。地域に白人の子どもは彼1人で、ギャング団に絡まれ、おかげで喧嘩が強くなったとも。


空飛ぶ円盤に遭遇するまで、彼には、蔑まれ続けた人生があった。ありていに言えば、彼はアブダクションの経験者となることで、“特別な人間”になったのだ。宇宙人から特別な役割を与えられ、選ばれた存在になることで、彼の人生は陽転したのだ。

だが、そのあまりにも陳腐な筋書きと、登場する空飛ぶ円盤や宇宙人の、あまりにも教科書的なエピソードが、番組を見ているうちに、得体の知れない恐怖に転化してゆく。もし宇宙人がいるとしたら、なぜ人間よりも遥かに聡明なはずの彼らが、こんな信用できそうにない男とコンタクトを試みるのか。


番組を見終わった深夜、キッチンで水を飲もうと冷蔵庫を開けた。窓ガラスに反射する冷蔵庫の光の中に、覗き見する宇宙人のアーモンドの瞳があったらどうしよう、と考える。

恐ろしいのは、エピローグの衝撃的な出来事を含め、彼の主張を100%否定できないことだ。可能性がわずか1%だけでも、このドキュメンタリーで繰り広げられる彼の「妄言」や「証拠」は、私たちが認識している世界に亀裂をつくる。その亀裂とは、地球というもの自体が、はなから宇宙に実在していないかもしれないという疑念である。






『GLOW:ゴージャス・レディ・オブ・レスリング』GLOW the Gorgeous Ladies of Wrestling


このドラマのことを知って真っ先に頭に浮かんだのが、ロバート・アルドリッチの女子プロ映画「カリフォルニア・ドールズ」だった。あれから30余年。80年代のカルチャーが新鮮味を持って受け入れられる機は十分に熟したらしい。

予想通り、メインキャストの売れない女優二人とやさぐれたB級映画監督は、「カリフォルニア・ドールズ」の売れない女子プロレスラー二人と、ピーター・フォーク演じる無頼のマネージャーを髣髴とさせる。80年代の風俗も忠実に再現されていて、なかなか好感が持てるではないか。

しかし、私の期待はすぐに失望へと変わった。陳腐でよく練られていない脚本を、たくさんの登場人物が甘いキャラクター設定のまま演じている。B級監督役の俳優は、ピーター・フォークの愛嬌を全く持っていない。出来の悪いコントのように笑えない場面が続く。

それでも、30分という短い尺のためか編集のテンポがよかったことと、メインキャストの女優がなかなかの演技力を見せていたことが、かろうじて私の目を画面に引き付けていた。

がけっぷちの売れない女優ルース役を演じるのは、アリソン・ブリー(Alison Brie)。調べてみると、これまでに様々な作品に出演している実力派女優である。画像検索をすると、このドラマからは想像もできないようなセクシーショットばかり出て来るではないか!いやはや、女優だなあ。そういえば、第1話で彼女のサービスシーンがあったっけ(見てのお楽しみ)。

もう見るのやめようか、と思う5話あたり、このドラマはがぜん面白くなってくる。登場人物の内面描写が増え、ドラマが展開し始める。そして、いつの間にかキャストへ感情移入している自分に気づく。ストーリーの先は見え見えだ。トラブルが起き、それを一致団結して解決し、大団円を迎える。わかっちゃいるけど目が離せなくなる。できが悪い子の成長物語に人々が感動するのは、古今東西の鉄板だから。

『センス8』Sense 8  ここにいるけど、そばにいない。ここにいないけど、そばにいる。


かつて、南国でしばらく暮らしたことがある。経済格差が著しい発展途上国の首都。昼寝から汗だくで起きると、中庭に出て井戸水でTシャツを洗濯した。煙草をすいながら、ぼんやりコーラを飲んでいると、塀の上を極彩色のトカゲがゆっくりと横切る。

スコールがやってくると、道路は水浸しになった。自転車に乗っていて、水たまりの底に隠れた深い穴に気づかず、前輪がとられて空中で一回転したことがある。ネットもない時代、だれともつながっていなかった。寂しいとは思わなかったが、救いは必要だった。

ここにいるけど、そばにいない。ここにいないけど、そばにいる。どちらが良いかとたずねられたら、圧倒的に後者になるだろう。たとえここにいなくても、そばにいてくれる存在だけが、救いになるからだ。だがもしその存在が、実体を伴ったらどうなるのか? 
 
物語のはじまりは、ちょっと取っ付きが悪い。だが「マトリックス」のウォシャウスキー姉妹が手がけたのだから、きっと面白くなるはずだ、と思いながら見続けると、案の定、ストーリーは重層化しながら、独特の世界観が、みるみる立ち上がって来る。ああ、これは単なるSFじゃないんだと思う。

このドラマは8人の群像劇だ。接点がないところからはじまるので、多少混乱するのも無理はない。舞台は、ナイロビ、ソウル、サンフランシスコ、ムンバイ、ロンドン、ベルリン、メキシコ、シカゴで、それぞれが、それぞれの人生で、葛藤を抱えている。

やがて、その8人は次第に、ここにいるけれど、そばにいない存在に、倦みはじめる。そしていつしか、ここにいないけど、そばにいる存在に、勇気づけられてゆくのだ。ときには、淡い恋心も抱くようになる。“ここにいない”からこそ、その絆は純粋なのだ。

8人のキャラクターがそれぞれ魅力的だ。なかでも韓国の女優ペ・ドゥナBae Doona)演じる、ソウルの財閥の長女サン(Sun)のカンフーアクションは“胸がすく”思いだ。

なにかに似ていると思う。石ノ森章太郎の「サイボーグ009」だ。ふだんは世界各地に散らばっている、特殊な能力を持つ仲間たちが、いざ危機が起こると集まって敵と対峙する。ただし物理的には、そばにいない。なんて困難な設定。脚本家の苦労がしのばれる。

「サイボーグ009」がそうであったように、彼らには「敵」が必要になる。ともすれば、その「敵」は陳腐なものになりがちだが、今のところ危ういレベルで、その通俗的な「罠」を免れている。願わくばシーズン2も、その「敵」はSF的なガジェットとしての位置にとどまることを。

と、不安ながらも期待していたら、シーズン2で打ち切りの情報が。と思ったら、世界中のファンからの熱い要望で、2時間の完結編が製作されるらしい。なので、安心してシーズン2を見ることにしよう。