『この世に私の居場所なんてない』I Don't Feel at Home in This World Anymore 「突然」が私を襲う



Netflixのオリジナルで、今年のサンダンス映画祭の審査員グランプリ受賞作。

毎日嫌な事ばかりで、それを受け流すことができない繊細な中年独身女、ルース。ルースを演じるメラニー・リンスキーは、あまりにも普通すぎる、どこにでもいそうな太めのアメリカ女性を体現している。また、この映画のタイトルは、ルースの鬱屈した気持ちを表している(珍しく直訳に近い日本語タイトル)。ある日、ルースの自宅が強盗の被害に遭い、パソコンとお祖母ちゃんの形見が盗まれてしまう。警察は全く頼りにならず、彼女は一人犯人捜しを始める。そんな中、ひょんなことから出会ったギークの独身男トミーも犯人探しに加わることとなるが…

物語は前半、淡々と進む。不器用で少々情けない中年男女が淡い恋愛関係を築きつつ、協力しながら犯人の核心に迫っていく。それは、コーエン映画からハードボイルドさと毒気を除いて、親近感をプラスしたような描き方と言ったらよいだろうか。出てくる人たちが皆「ビミョーな」感じなのだ。私は、このままオフ・ビートな人間ドラマが粛々と続いていくのだろうか?と思いながら見ていた。

ところで、エコー&・ザ・バニーメンの「Bring on The Dancing Horses」が流れるシーンがある。私が昔好きだったバンドの曲だ。突然懐かしさと切なさが襲ってきて、一時ストーリーが頭に入らなくなった。全然関係ない話だが、先日西友スーパーで買い物をしていたら、突然バニーメンの「The Killing Moon」が流れてきたことがあった。あまりにも久しぶりに聞いたもので、「うぉおおお!懐かしい!!でも、こんなエッジィな曲がなぜに西友で?」と、一人あたふたしてしまった。挙動不審だったに違いない。それで、よくよく聞いてみると、80年代ブリティッシュロックが次々に流れているのである。西友は有線のブリティッシュロック専門局と契約しているのであろうか?だとしたらなかなかパンクだ。


(以下ややネタバレあり。この映画は一応「スリラー」なので注意!)

話を元に戻そう。

こうして、この映画の3分の2ぐらいは淡々と進んでいくのだが、ある事件をきっかけに、急激な場面転換が起きる。そしてここからが怒涛の展開となる。全く予期していなかったため、その畳み掛けるようなバイオレンスとグロ描写にあっけにとられてしまう。ルースは生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれ、正義感の強いトミーも巻き込まれてしまい…

最初はチマチマした人間ドラマかと思いきや、終わってみれば堂々たるエンターテインメントであった。そして私個人にとっては、ことのほか「突然」が多い映画だった。脚本・監督は、これが初監督作品となるメイコン・ブレア。初監督作にしては思い切りのいい構成に打って出た。そしてそれは吉と出たようだ。

ただ一点、個人的な好みを言わせてもらうと、もうちょっと映像がきれいな方がいいかな。

『ラーメン大好き小泉さん』 おかわりで見たいラーメンドラマ


気晴らしに国内産のドラマを見た。女子高生がひたすらラーメンを食べ続けるドラマである。少し前にフジテレビでやっていて、NETFLIXのラインナップに載っていた。主人公は元ももクロメンバーの早見あかり。きれいな顔立ちの女子が、ズズズズっと豪快に麺をすする。

国内産ドラマはまったく見ない上に、地上波もほとんど見ないので新鮮だった。漫画が原作であり、一言でいえばラーメン蘊蓄ドラマである。都下の有名なラーメン店を食べ倒して行くのだが、僕の事務所の近くにある「麺屋武蔵」も「ラーメン二郎」もでてきた。

「麺屋武蔵」といえば、“湯切り”のときに、お祭りの時のような、独特の掛け声みたいのを皆で唱和するのが、ちょっと苦手である。掛け声のタイミングを外した新人は、後で先輩から怒られるのだろうか? とか、余計なことが気になってしまうのだ。

毎回、クールな小泉さん(早見あかり)は、ラーメンを食べるとき、指をポキポキ鳴らし、髪の毛を後ろでまとめ、割り箸を持つ手を合わせていただきますと挨拶し、豪快に音をたてて麺を吸引、汗をかきながら、お茶をいただく時のように椀を持ち上げて、汁をのみほす。

純粋に、ラーメンが食べたくなる。

個人的に、いまよく行くラーメン屋は、原宿の竹下口側にある「亜夫利」である。いつも行列ができているが、深夜は比較的すぐ入れる。仕事の帰り道、お腹がすいているとき、店の前で逡巡するが、20回に1回くらいの割合で、「ええい、ままよ」と入る。

柚子露つけ麺が美味しい。汁まで飲み干す。原宿の寂しい側に立地しているということもあって、深夜の原宿っぽい男の子や女の子がたくさんいる。若い子だけじゃなくて、先日隣に座っている人をよくよく見たら、辰巳琢郎だった。食いしん坊バンザイの人だ。

ドラマでは、美少女・小泉さんのことが大好きなクラスメートが登場し、ラーメン初心者としてつきまとう。いかにも脇役然とした顔の彼女が、「また一緒にラーメン食べに行こうね」と言うと、小泉さんはいつも「お断りします」と冷たく言い放つ。「またまた〜♡」と、めげない脇役の彼女が可愛い。

いくらでも続きそうなドラマなのだが、たった4話で終了。ロケ店の交渉が難しいのだろうか? 視聴者としては、続きが見たいし、「カレー大好き麻生さん」「牛丼大好き安倍さん」なども見てみたい。本家NETFLIXの、“これでもかと続ける体力”を見習ってほしいところだ。


 

 

『ナルコス』シーズン3 NARCOS season3  頑張れ!ナルコスのスタッフ!

ナルコスのシーズン3が配信された。

シーズン1,2の視聴後、ちょっとした「パブロ・エスコバル」ロスになっていた。あの圧倒的な怪物がいなくなって、今後一体どうやってドラマを作っていくというのだ? シーズン1,2はまさにパブロの男一代記だったから、キャラが弱そうなボス率いるカリ・カルテルを描くシーズン3には、あまり期待できなかった。唯一、ペーニャ捜査官を演じるセクシーで男前なペドロ・パスカルが、今回も主役級で出演するということだけを、楽しみにしていた。

ところところが!

シーズン3も大傑作だった!!

今回は重要な新キャラ「ホルヘ」が登場する。彼は実在のカリ・カルテル警備責任者で、その存在についてはこちらの記事(英語)を参照して欲しい。このホルヘ役を演じるマティアス・バレラが素晴らしいのだ。彼はなんとスウェーデン出身!(両親はスペイン人)とのことだが、Netflixのキャスティング力には舌を巻く。まさに世界中にキャスティングの網を張っているのだ。

シーズン3は、このホルヘを中心に、ハラハラドキドキのハリウッドスタイルで進行していく。崖っぷちを行くホルヘの芝居と、キレのいい編集、複雑な構成の脚本で、見るものを決して飽きさせない(もちろんペドロ・パスカル様も安定感抜群)。しかし、物語が加速を始めるのは5話からなので、「なんだ、それほどでもないな」と途中で投げ出さないでほしい。


もう、日本の「相棒」とか退屈すぎて見てられない。レベルが違いすぎる。半沢直樹、何ですか、それコントですか?てな感じ。

それに、ナルコスは多大な犠牲を払って作られているのだ。この記事(英語)によると、パブロ・エスコバルの兄が弁護士を介してNetflixに10億ドルを要求しているという。彼は、
「Netflixは安全のためにヒットマンを雇うべきだ」
「俺らは俺らの名前とナルコスブランドの全ての権利を持っている。シリコンバレーのやつらと遊んでる暇などない。やつらは携帯だのなんだのいいモンを持っているだろうさ。だがやつらは生きるとは何なのかを知らない。コロンビアのジャングルで生き延びるなど到底無理だ。俺は生き延びてきた」
「やつらは母ちゃんの腹から出るべきではなかった、やつらがコロンビアに来たらそう言ってやる」
などと恐ろしいことを言っている。

また、先日はメキシコでシーズン4のロケハンをしていたスタッフが射殺体で見つかった。シーズン3の最後で、次の舞台はメキシコだと示唆されて終わったため、私は非常に期待していた。メキシコは現在進行形で麻薬カルテルが暗躍している場所だからである。しかし、これで制作がかなり危うくなったのではないだろうか? 今は、スタッフが無事にシーズン4を撮り終えてくれることを祈るだけである。

『番外編』Netflix登場で変わったこと Big change after Netflix was born

Netflixのようなウェブ配信サービスというのは、ドラマの製作者に新たなプレッシャーを与えているのかもしれない。

自らを振り返ってみれば、途中で見るのをやめてしまった作品がたくさんある。

もうやーめたっ!と見切るまで、良くて30分、たいていは15分で決着がつく。「ナルコス」のように、1話で中断してから数か月放置した後に「ドはまり」してしまったものもあるが、そういうのは稀だろう。なぜなら、当たり前だが視聴者は義務で見ているわけではないからだ。途中放棄するのに容赦などしない。なんなら「金払っているのにこんなつまらんもの見せやがって!」ぐらいの勢いだろう。少なくとも私はそうだ。

しかし、それがNetflixのいいところでもある。我々がレンタルビデオ屋で映画やドラマを借りていたころは、数百円をドブに捨てる覚悟だったのだ。当時は、つまらないものを見てしまった落胆と怒りを感じないふりをして「数百円くらいしかたないさ、これがレンタルビデオ屋のスリルなんだから」などと無理やり思い込んでいたのだ。それが今や月数百円でいろんな作品が見放題で、途中でやめたものを数か月先に再開したって、延滞料も追加料金も取られないのである。私たちがレンタルビデオ屋にくれてやったムダ金とやり場のない怒りは何だったのだろうか、という話である。

CMがない上に、次の回を見るのに来週まで待たなくてもよくなったというのも大きな変化だ。たとえば「24」はCMのタイミングで経過時間表示が入り、それが場面転換のタイミングにもなっているのであるが、製作者側はそのような放送上の制約に縛られることがなくなった。また「前回のあらすじ的」な尺をその回の冒頭に挿入する必要もなくなった。視聴者側も、CMや1週間のブランクということに煩わされずに「イッキ見」ができる。

ところがこれは製作者側に自由を与える一方で大変なプレッシャーを与えているのかもしれない。「イッキ見」に耐えうるような作品をつくらなければならないからだ。従来のテレビドラマは、視聴率やスポンサーの意向が一種の指標となって、軌道修正しながら作ることができただろう。しかし今は10話なら10時間の作品を、全くの手さぐりで完成させなければならない。非常に博打的である。

幸い、Netflixは大変儲かっているらしいので、しばらく博打は続けられるだろう。10話作ったのに15分で見切られるかもしれない緊張感の中で。

『ハイ・ライフ』Disjointed みんなハイでご機嫌なら、世界は平和で居心地がよい


南国の首都で暮らしていたときのこと。よく晴れた午後、ソファで寝転んでいると、よく友だちの友だちが、乾燥した葉っぱが詰まった靴箱を抱えて遊びにきた。ビールを飲みながら、葉っぱを回す。そんな日常、いま考えれば天国のような日々だった。

ラジオから流れる能天気な音楽が、キラキラした粒になって部屋の中を漂い、笑いがとまらなくなる。友だちとはテレパシーが通じたし(何語で会話していたのか覚えていない)、ハイになって繰り出す夜の街は、まるでフェリーニの映画のように幻想的だった。

なので、もちろん法治国家である今の日本では許されないが、高樹沙耶さんが築こうとしていたユートピア世界への希求も、わからなくはない。「ハイ・ライフ」は、そんな彼女に是非見てもらいたいドラマである(もう見ているかも)。

キャシー・ベイツは、マリファナが合法化された(という設定の)米国で、“マリファナ薬局”を営む女主人である。こんなハマり役があるのかと思うくらい、ハマっている。従業員たちはみんなご機嫌で、共同経営者である息子だけが、チェーン展開しようとしゃかりきになっている。でもご機嫌なみんなは、面倒くさいだけだ。だって、楽しければ今のままでいいじゃない? 

チェーン展開の計画を熱く語る息子。その計画をじっと聞いている従業員。「で、君の意見はどうだい?」と聞かれた従業員の答えは、「ごめん、聞いてなかった」。葉っぱの世界はそんなふうに率直で、限りなく平和だ。たぶん、戦争なんて起こらないだろう。

世の中が(たとえラリっていても)みんなご機嫌ならば、世界は居心地がいいはずだ。世間というものが、しかめっ面で、怖い顔だから、いろいろなトラブルが起こり、人々は心の病を抱えるのだ。人の話を聞いてなくても、ご機嫌な人々と仕事するほうが、絶対に楽しいに違いない。今の世の中にはたぶん、葉っぱが足りないのだ。


と、いうようなことを夢想してしまうドラマであり、個人的には日本のキャシー・ベイツ、樹木希林さんに、千駄ケ谷辺りで“マリファナ薬局”を開いてもらいたい。そしたら毎週通うだろうな。いつか、そんなご機嫌な世の中になることを願う。ラブ&ピース。

『世界でひとつの彼女』Her 人間はディープラーニングで進化できない存在か


アンドロイドが登場するSFドラマは、物語の展開が決まっている。自分のことを理解してくれる“機械”に恋をしてしまうのだ。そしてアンドロイド自身も、いつしか感情らしきものを持つようになる。だがもちろん、人間とアンドロイドの間には超えようのない溝があるから、物語は悲劇的な結末を迎えることになる.

Her」の新しさは、相手がアンドロイドではなく、“肉体”を持たない“声”だけの存在であることだ。コンピュータの中の人工知能の彼女は、ビッグデータを基にディープラーニングで日々進化してゆく。ビッグデータの中には人間の感情も膨大に蓄積されているから、当然のことながら人間的な感情を巧みに表現できる。

でもそれは本当の感情なのだろうか? というのが、この映画のテーマである。もともと人間だって、電気回路で出来た脳で動いているのだから、一種の人工知能と言える。偉そうに「感情」などと言っているけれど、ただの電気信号の組成に過ぎないのだ。だとしたら、人間と人工知能に、どんな違いがあるのだろう?

主人公を演じるのは、ホキアン・フェニックス。凡庸になりがちな物語展開を救っているのは、彼の不思議な存在感ゆえである。どんな映画に出ていても“場違い”な印象を与える独特の雰囲気が、この映画でも全開。いい意味で、物語の座り心地を悪くさせてくれる。
 
人工知能学者によっては、コンピュータが人間を超越するシンギュラリティなどやってこないと言う。人工知能に劇的な進化をもたらしたディープラーニングは、そもそも人間があらかじめ正解を与えることで成立するシステムだからだ。


けれどもこの映画のように、人工知能が学習によって人間以上に適切に感情を表現することは、もはや十分に可能だ。哀しいときや辛いときに、寄り添ってくれる“声”が側にいたら、人間はそれ以上の何を求めるだろう? だが、悲劇はそれでもやってくる。なぜなら人間は、人工知能のように学習によって進化できる存在ではないからだ。

『心中天網島』The Love Suicides at Amijima (or Shinjū Ten no Amijima) 1969年のクリエイティビティはもう戻ってこない

「心中天網島」は、篠田正浩が1969年に映画化した近松門左衛門の心中物である。その年のキネマ旬報ランキング1位で、制作・配給は、今は亡きATG。前衛演劇、前衛映画、ATGと、1969年の匂いがプンプン漂う作品だ。貧弱なNetflixの映画ラインナップに、どうしてこの作品が入っているのか謎である。

この映画は、観客の感情移入を全く期待していないようだ。まずオープニングからして気分を削ぐ。浄瑠璃の準備をしている舞台裏映像に、監督が誰かとセットの打ち合わせをしている音声が被さってくるのだ。「あそこにロケハンしてきたんですけどね…」みたいな会話を我々は聞かされる。

劇中では、ごく一部の屋外ロケ以外は舞台の書き割りのようなセットの中を、黒子と役者が様式的に行き来して、そこにリアリティはない。観るものが物語に入り込もうとすると、強いライトによる光と影とか、やけにクローズアップされる黒子の存在とか、武満徹の不穏な音楽が邪魔をする。

役者は、主演に岩下志麻と中村吉衛門、脇に藤原鎌足、小松方正、左時枝など、スターや実力派を揃え、重厚な布陣である。それがこの映画のトンガリをやや緩和させている。とはいっても、主役の二人が舞台っぽい大げさな芝居なので、やっぱり感情移入しにくいのである。篠田監督は、愛妻・岩下志麻に一人二役という難題を与え、彼女はそれに一所懸命応えようとしている。しかし彼女には余裕がなく、いっぱいいっぱいのように見える。私は岩下志麻を上手い女優だとは思わないが、監督の妻ということで使い易かったのだろうから、これには文句は言うまい。ただ、若尾文子あたりだったらもっとエロくてリアルだっただろうなーと妄想してしまう。

それから、かなり寒い時期に撮影されたのだろうか、役者が薄着なのに吐く息がとても白くて、それが気になってしかたがなかった。野外(しかも墓地)で男女の営みを行う場面があり、岩下志麻の太ももが露わになったりするのだが、エロいというよりなんだか気の毒になってしまい、これまた物語に全然入り込めないのだ。そういえば、冒頭で篠田監督は「イイ感じの墓が見つかった」的な事を嬉々として喋っていたので、絶対にそこでロケしたかったのだろうが、残念ながらこれは演出ミスであった。

いろいろと厳しいことを書いてしまったが、2017年の今、こんなけったいな実験映画を豪華出演陣で作るのは不可能だ。1969年は今よりもずっと自由でクリエイティブな雰囲気があったのかな、と、ちょっとうらやましく思う。