『マーズ火星移住計画』MARS 火星への耐え難い旅

火星まで200日、往復400日。着陸に失敗したら、すべてが終る。緊急事態が起きても、誰も地球から助けに来られない。文字通り、命がけの冒険なのだが、よく考えればコロンブスの時代、船乗りたちはもっと大きなリスクを背負っていた。地球が丸いとも知らず、水平線の向こうは滝になっていて、奈落の底に落ちて行くかもしれなかったのだ。

だから、すべてがコントロールされている火星へのミッションは、リスクは限りなく少ないとも言える。リスクがあるとすれば、人間(乗組員)の精神状態だ。それだけはシミュレーションができないため、未知の部分が多く残っている。このドラマのポイントは、そこにある。つまり宇宙に旅立つ人間の、強さと脆弱さの葛藤の物語なのだ。


最初の1話を見ているとき、なんだかナショジオの番組に似ているなと感じた。それもそのはず、『MARS』の製作はナショナルジオグラフィックである。2016年の火星探索のドキュメンタリー(スペースXの創業者、イーロン・マスクも登場)と、2033年のSFドラマが同時進行する。フィクションとノンフィクションが絶妙にハイブリッドされた番組なのだが、違和感なく見られるのは『アポロ13』『ビューティフル・マインド』のロン・ハワード監督が製作総指揮を務め、ドラマ自体に十分な予算をかけられているからだ。

こうした形態の番組は始めてだったが、今後こうした番組は増えていくのではないかという予感がする。2016年の火星探査プロジェクトチーム(実在する)のインタビューの後に、まったく同じトーンで2033年の火星探査の乗組員のインタビューが続く。どこまでがフィクションで、どこまでがノンフィクションなのか、一瞬わからなくなる。だが物語のダイナミズムは一貫して失われず、火星探査というテーマ性も損なわれない。

閉鎖恐怖症気味の自分にとって、火星までの200日の旅は耐え難いものにちがいない。何しろ、ちょっと引き返すということができないのだ。残された道は、ただ前に進むだけなのだが、考えれば人生だって、そんなものだ。前に進むことしかできず、後ろに引き返すことはできない。いったんロケットで打ち上げられたら、もはや止めようがなく、目的地に向かって突き進むだけだ。コントロールしているつもりでも、突発事故が起きたらミッションの途中で死んでしまう。『MARS』を見ながら、そんなことを考えた。





『ブレイキング・バッド』 Breaking Bad  アルバカーキの青い空


エピソードの最初の部分をディーザーという。多くのテレビドラマでは、短いディーザーの後にタイトルが出る。ディーザーとはいわばメインディッシュの前の前菜のようなものだが、ブレイキング・バッドのディーザーはとても暗示的で、それが大きな魅力だった。

一見、ストーリーとは何の関係もないシーンだったりするのだが、エピソードを最後まで見て真意がわかる、というパターンなのだ。そのシーンこそ、プロットの大転換や人物の運命が大きく狂うポイントだったと、後で気づく。でも伏線とは違い、暗喩なのだ。

たとえばプールに目玉が浮かんでいる。人間の目玉ではない、ぬいぐるみの目玉が取れて浮遊している。なぜプールに目玉が? そのディーザーは、何話かのエピソードに連続して登場するが、不吉な予感はするものの、しばらく何のことかわからない。だがやがて、それが大きな事件、エピソードを左右する象徴的な事件の顛末だと知ることになる。

ブレイキング・バッドを見るたびに、ディーザーが楽しみになる。ディーザーのおかげで、視聴者はそのエピソードが完璧にコントロールされていることがわかり、安心する。すぐれた物語には、すぐれたディーザーがつきものなのだ、たぶん。そして自分の日常生活にも、そんなディーザーがあったらいいなと思い始める。あるいは、本当はあるのだけれど、気づいていないだけなのかもしれない、と考えたりもする。

ブレイキング・バッドは、言わずと知れた名作ドラマだ。多くの批評家の称賛を受けており、主演のブライアン・クランストンは、ゴールデングローブ賞を始め、数々の賞を受けている。だから、ここであらためて物語を称賛する必要もないだろう。


印象に残るのは、舞台となったニューメキシコ州アルバカーキの風景である。撮影も実際にそこで行われたという。いつも空が青く突き抜けている。グラデーションがかかった深い青。白いブリーフ一丁で佇むブライアン・クランストンの背後にあるのは、いつもアルバカーキの青い空で、最終話を見終えてから、それが物語全体のデューザーだったのだと知る。すなわち、麻薬王となる彼が開発した“ブルーメス”の象徴だったのだ。

『ゴッドレス』Godless 優れた脚本家=優れた演出家とは限らない

画家になるとか何とか言って、エンターテインメント業界からしばらく離れていたスティーブン・ソダーバーグが製作総指揮を務めるというので、このドラマに興味を持った。脚本監督は、「アウト・オブ・サイト」の脚本家スコット・フランクが務めるというので、間違いないだろうと思った。各批評サイトでの評価も高く、Rotten Tomatoesでも90%近い支持を得ているのなら、これはもう見るしかなかった。

ー7話全てを見終わって改めてわかったのは、評価が高いクリエーターが作った評価が高い作品だからといって、必ずしも私が面白いと思うわけではないということだー

それなのになぜ最後まで見てしまったのか?やはりこの脚本家の術中に嵌ってしまったのかもしれない。オチがどうしても気になったのだ。

このドラマに一応主人公はいるが、実際は群像劇である。強盗団から逃げ出した流れ者(主人公)、強盗団、流れ者をかくまう家族、事故で男たちの大半を失ってしまった女ばかりの町の住民。こうした人々の物語が互いに絡み合い、影響し合いながら、最終話に向け収束していく。スコット・フランクはさすがハリウッドで長年第一線で活躍している脚本家だけあって、複雑な話を見事に紡ぎあげている。

彼が優れた脚本家なのはよくわかった。しかし、演出家としては残念ながら優れているとは言い難い。

非常に冗漫でテンポが悪い演出だった。このドラマを7時間もかけて撮る必要性はまったく感じない。2時間半くらいに短縮できるはずだ。つまり、編集がまずく、独りよがりのシーンが多いということだ。

それに加えて、1箇所初歩的なミスを見つけてしまった。ずぶ濡れになった次のカットで服が乾いていたのだ。ソダーバーグがエグゼクティブ・プロデューサーを務める大作で、これは酷い。

(ここからちょっとネタバレ)また、クライマックスの銃撃シーンは、ペキンパーの「ワイルド・バンチ」を思い起こさせる設定なのだが、そこまでのキレはない。ペキンパーと比べるほうが酷なのだろうか? なにせ、ペキンパーという人は編集センスの塊みたいな人だから。


このドラマを評価している人はたくさんいるので、単に私の好みに合わないだけかもしれない。しかし百歩譲っても、この人の編集センスはいただけない。なんでソダーバーグが監督をやらなかったんだろう。

演出には不満足だったが、素晴らしい役者がそれを補ったことは付け加えておかなければならない。強盗団の親分を演じたジェフ・ダニエルズが秀逸だった。なんか見たことあるなーと思いつつ、髭を蓄えていた上、極悪な役だったので、彼だとは気付かなかった。ジェフ・ダニエルズの名演技を見たい人には間違いなくお勧めできるドラマである(苦笑)



『ザ・キリング』THE KILLING 米国版シーズン4 すべてをぶちこわす蛇足


なぜ人は「蛇足」と認識するのだろうか? その「蛇足」は人によって感じ方が違うのかもしれない。だが、それにしても、誰がなんと言おうと、『ザ・キリング』のシーズン4は蛇足だった。シーズン3の衝撃のラストで終るべきだったのだ。

『ザ・キリング』は、デンマーク史上最高視聴率を記録し、ヨーロッパ諸国で大ヒットしたドラマである。本家の『ザ・キリング』のシーズン2までを見て、シーズン3から米国リメイク版を見た。変則的な見方だということは認めよう。

米国版は、舞台をコペンハーゲンからシアトルに移している。本家のシーズン3以降と、ストーリーはまったく違うらしい。なぜ途中で米国版に乗り換えたかというと、米国版の主人公の女性刑事役リンデンを演じたミレイユ・イーノスが魅力的だったからだ。

とくに美人というわけではない。どちらかというと、どこか疲れた風情の、険しい顔をした中年女性だ。言動も極端にクールで、冷たい印象を与える。相棒の男刑事との間も、微妙な距離感だ。彼女は事件にのめり込み、取り憑かれ、その他の世界は希薄になる。

彼女は、なぜ人を惹き付ける魅力があるのかと、ドラマを見ながら考えた。一言でいえばリアリティだ。喜怒哀楽を見せず、常に落ち着いている彼女が、ときおり感情を乱される瞬間がある。するとほんの一瞬、彼女の脆く儚い素顔がそこに現れる。それが胸の痛むようなリアリティの正体で、ほぼ、その表情を見るためにドラマを見続けた。


ストーリー展開は、シーズン3まではほぼ完璧だった。情報によると、本当はシーズン2で打ち切りのはずが、なぜかシーズン3まで継続。だが視聴率が芳しくなかったため、やはりシーズン3で打ち切りのはずだった。ところが何を思ったのか、ネットフリックスがシーズン4を最終シーズンとして制作したという。


シーズン4は、それまで彼女がつくりあげてきたリアリティまでをも壊してしまった。とくに最終話、ラストの5分間は、史上最悪の「蛇足」だった。人生は続くが、続ければいいというものではない、というのがこのドラマの教訓になってしまった。