『ラブ』LOVE 人間関係を「ぎくしゃく」させるとドラマが成立する


眼の手術をした。麻酔は目薬だけだ。手術台に寝かされ、強烈な光を見ていると、横の方からぼんやりと医師の姿が現れ、なにか尖ったものが眼球に迫って来る。手術後、世界はしばらく滲んで見えた。髪も洗えないので、なるべく汗をかかないように、じっとしているしかない。不自由な視界の中で、見るべきものは限られる。恋愛コメディだ。

コメディ映画のヒットメーカー、ジャド・アパトーが仕掛ける恋愛コメディは、限りなくウディ・アレン的だ。気の利いたことを喋りまくるガス(ポール・ラスト)と、美人だけど自分勝手なミッキー(ジリアン・ジェイコブス)の恋物語。舞台はLA。ガスは、撮影スタジオで生意気な子役の家庭教師を務め、ミッキーは小さなラジオ局に勤務している。

2人は「ひょんなことから」出会い、ウディ・アレン的に恋愛が進展するが、ウディ・アレン的にぎくしゃくし始める。一言でいえば、このドラマの真髄は、この「ぎくしゃく」さ加減にある。2人の仲が「ぎくしゃく」する。元カレと「ぎくしゃく」する。親との関係が「ぎくしゃく」する。職場の同僚やルームメイトとの関係が「ぎくしゃく」する。

殺人は起こらない。武器も出て来ない。血も出ない。ゾンビも登場しない。超常現象も起こらない。出て来るのは、ちょっとした変人たちだ。退屈なのだが、変哲もない日常生活が「ぎくしゃく」するだけで、なんとなく退屈ではなくなり、ドラマになってしまう。優れたドラマは、ジャンルにかかわらず、人間関係が「ぎくしゃく」しているものだ。

ガスはメガネをかけている。ミッキーとセックスするときもかけている。実際に寝ているときはメガネを外しているが、目が覚めて最初にすることは、メガネをかけてミッキーを探すことだ。たぶん強度の近視なのだろう。なぜコンタクトをしないのか、気になる。


視力が不安定なせいか、恋愛コメディを見ても思考力があまり働かない。そもそも恋愛コメディを見て、なにかを考える必要はないのだろう。「ぎくしゃく」しているけど、2人は結局、相性がいいのかな、と思うだけだ。ウディ・アレン的ではあるけれど、しつこさはそれほどない。じっとしながら「ラブ」を見ていたら、夏が終ってしまった。

『ホット・ファズ ー俺たちスーパーポリスメン!ー』 HOT FUZZ が教えてくれたこと

英国のお笑いが好きだ。古くはモンティ・パイソンから始まって、最近のスーパースター、リッキー・ジャヴェイスが手掛けた「The Office」「Extras」、変な英国人を描いた「リトル・ブリテン」、サシャ・バロン・コーエンが扮するキャラクターの数々など…

外国のコメディというのは、言葉や文化の違いが通常のフィクション以上に壁になるためか、あまり日本に入ってこない。そんな中で、熱狂的な日本人たちの後押しでDVD化が実現した英国のコメディ映画がある。「ショーン・オブ・ザ・デッド(Shaun of the Dead)」というホラーコメディだ。これをずっと観たかったのだが、残念ながらNetflixでは配信していない。そこで、同じ制作陣で作られた「Hot Fuzz」を代わりに観ることにした。

「Hot Fuzz」は、サイモン・ペッグ演じるロンドンのエリート刑事が田舎町サンドフォードに左遷させられ、ニック・フロスト演じる愚鈍な警官とコンビを組んで事件を解決するという話である。

で、評価の高い「ショーン・オブ・ザ・デッド」の制作陣が手掛けたということで、わくわくしていたが、期待しすぎたようだ。残念ながら私の好みではなかった。やはり、他人の評価を鵜呑みにするのはよくなかった。だから、この映画がめちゃくちゃつまらなくて時間を無駄にしてしまい、そのせいで、ウサイン・ボルトの引退セレモニーを見逃してしまった、という私の意見も参考にしすぎないでほしい。

約2時間の尺のうち、1時間半ほどは話がほとんど動かない。そして、たいして笑えない。脚本は、はっきりいって稚拙。見どころは、最後の30分で唐突に始まる激しいアクション銃撃戦。監督のエドガー・ライトは当時30代前半と若く、編集やアクション演出に勢いとキレがあるのは認めよう。でも、ギャグ満載のバカバカしいコメディを期待していた身にとっては、あまりにも中途半端な映画だ。最後の30分は勢いがあるし、あのティモシー・ダルトンが、007の悪役張りの演技を披露してちょっと笑えるのだけど。

そんなわけで、この映画はティモシー・ダルトンの生存確認という意味ではみる価値がありましたョ(≧∀≦*)

彼が楽しそうに芝居をしていて…それを見ていてちょっとほっこりしました(*´∨`*) 

やっぱり、気になってた俳優さんの元気な姿を見れるのって嬉しいですよね(*´艸`*)



『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』Orange Is the New Black もしかしたら自分は“いい人間”じゃないかもしれない 



小さい頃から「優しくて思いやりのある子だね」と親に言われて育ち、大人になってからも自分は“いい人間”であると思っていた。それが自分のアイデンティティで、人から非難されることがあっても、それは相手の誤解であると(心の底から)思っていた。

ところが最近、いろいろな状況で人から“よくない人間”だと指摘されることが重なり、もしかしたら自分は“いい人間”なんかじゃないのかも? と思いはじめた。アイデンティティが崩壊するわけだから、これは重大な問題である。

そんなとき、オレンジ・イズ・ニュー・ブラックを見始めた。海外ドラマを見ていると、しばしば起こる現象なのだが、それがここでも起こっている。シンクロニシティだ。

主人公のハイパー・チャップマンは、裕福な白人家庭に生まれたお嬢さんだ。ところが、レズビアンの恋人の麻薬運搬を手伝ったため、発覚して刑務所に入れられてしまう。優しいフィアンセと涙の別れをして入所した世界は、まさに絵に描いたような女刑務所だ。

ヒスパニック系と黒人系の派閥抗争。ロシア人の料理番長と取り巻きの縄張り争い。屈折している所長と、病的な看守たち。偏執的なキリスト教信者や、ハンガーストライキを敢行するアジア女性。その中でパイパーは、孤立して虐められ、裸にされてナイフを突きつけられたりする。これは、そんな環境で成長するお嬢様の物語なのか、と最初は思う。

だがシーズン1の最後に、物語はいきなりダークな展開になる。一言でいえば、パイパーが自分のダークな部分に気づくのだ。自分がよかれと思ってやったことが全部裏目に出て、囚人仲間から非難され、恨まれ、罵倒され、傷つけられる。感情が爆発した後に残るのは、“もしかしたら自分はいい人間じゃないかも”という気づきだ。

だからといって、物語は急激に展開するわけでもなく、シーズン2に入っても、ドラマはまったりと進んでゆく。珍しくテンポの遅いドラマなのだが、米国で絶大な人気を誇っているのはなぜなのか? “いい人間”であることをやめると、人生は楽になる? 個人的には、それがこのドラマの主要なメッセージだと捉え、励まされながら見続けている。

『ファーゴ』シーズン1、2 Fargo season1, 2

ファーゴ・シーズン1→シーズン2の5話まで→ナルコス、という順番で観たところ、ファーゴがあまりにも味気なく感じ、最後まで観通す気がなくなってしまった。ナルコスがあまりにも傑作すぎて、他のマフィアものが陳腐に感じてしまうのだ。現時点でのマフィアものマイベスト3は、ゴッドファーザーPART2、「元祖」ゴッドファーザー、ナルコスの順だ。
                                                                  
かといって、ファーゴシーズン1は決して悪いドラマではない。佳作と言っていいと思う。個人的には映画版よりも好みだ。あの寒々しい世界観はそのままに、ビリー・ボブ・ソーントン演じる殺し屋マルヴォ、マーティン・フリーマン演じる保険屋レスター、アリソン・トルマン演じる警察官モリーそれぞれのストーリーが上手く絡み合いながら、見るものを飽きさせることなく、緊張感を持続させたまま話が進んでいく。ビリー・ボブは、コーエンの映画「バーバー」で無口な散髪屋を秀逸に演じていたが、このドラマでも不気味な殺人鬼を好演していて、存在感は抜群だ。どうやらドラマと映画は、ビリー・ボブ・ソーントンがピーター・ストーメア、マーティン・フリーマンがウィリアム・H・メイシー、アリソン・トルマンがフランシス・マクドーマンドという対応関係になっているようで、それぞれを比べてみるのも面白い。まあ、どの役者も上手いのだが、マーティン・フリーマンだけが、ウィリアム・H・メイシーに勝てていなかったか?メイシーの、見るものを非常にいらいらさせると同時に不穏な気分にもさせるという稀有な個性を凌駕することは、今を時めくフリーマンにもできなかったようだ。


第5話で視聴を中断していたシーズン2も、どんな結末を迎えるのか気になり、最後まで頑張って観た。次は面白くなるだろう、次は面白くなるだろう、と期待して観続けていたのだが、あまり盛り上がらないまま終わってしまい、拍子抜け。 キャラ設定とストーリーが練り切れておらず、消化不良感が残った。

シーズン1から遡って舞台は70年代末、マフィアの抗争に一般人夫婦が巻き込まれるという形で話が進んでいくのだが、当のマフィアたちがあまり怖くない。タランティーノ映画でサミュエル・Lジャクソンが喋るような、引用満載のセリフを黒人のマフィア幹部役に喋らせているが、何かうまくいっていない。9話では、映画「マグノリア」のクライマックスばりの意味不明な場面が唐突に現れ、唖然とする。脚本家はうまいことやったつもりなのだろうか? 私はシラケてしまった。シーズン1同様2も、平凡な一般人が犯罪に巻き込まれたり、犯人が最初から分かっているという点で、ヒッチコック映画を思い起こさせる。しかし、サスペンスを盛り上げる演出がヒッチコックのほうが格段に上手く、その偉大さを再確認した次第。

たいていのドラマ、映画がそうであるように、ファーゴもシーズン2が1を超えることはやはり難しかったようだ。しばらくマフィアものはいいかな…

『殺人者への道』冤罪事件?を追った迫真のドキュメンタリー Making a Murderer: Is he guilty or not?

まず、日本の警察・司法関係者全員に、このドキュメンタリーの視聴を義務付けて欲しいと本気で思う。捜査とは何か、司法とは何かについて、これほど分かりやすく、面白く、問題提起をしている作品を他に知らないからだ。

アメリカ・ウィスコンシン州の片田舎に住むスティーヴン・エイヴリーは、強姦罪で刑務所に入れられた。やがて科学技術が進歩し、DNA検査によって潔白が証明され、18年後の2003年に釈放された。彼は一躍時の人となり、彼の名前が付いた法案が可決されるほどまでになったが、2005年にまたもや逮捕されることとなる。今度は殺人罪で。

この作品は一貫してスティーヴンが無実であるという立場で作られており、そのスタンスに賛否両論あるだろう。しかし、その立ち位置云々は抜きにして、下手なフィクションを軽く凌駕する面白さなのだ。

制作者は10年に渡る、関係者の証言、通話記録、証拠写真、尋問ビデオ、法廷記録、文書等々、膨大な量の素材を緻密に編集し、手に汗握る「サスペンスドラマ」を作り上げた。私達は、1話進むごとにスティーヴンに感情移入し、「狡猾な」警察や検察に腹を立て、弁護士を心から応援するようになっていく。

警察は、スティーヴンの甥ブレンダンにも共犯の罪を着せようとして、強引な取り調べを行う。これを観ていて、志布志事件を思い出した。公職選挙法違反の冤罪事件で、罪の重大さではエイヴリー事件に及ばないが、警察が最初から犯人を決めつけて、誘導的で強引な取り調べを行った点は同じである。他に、厚労省の村木厚子局長が、大阪地検によって無実の罪を着せられたことも記憶に新しい。日本では、取り調べや裁判の様子が可視化されていないため、アメリカよりも冤罪事件は多いかもしれない。

アメリカでは「殺人者への道」が大変な反響を呼び、スティーヴンの恩赦を求める署名が20万件集まったという。ここまで真に迫ったドキュメンタリーを作ることができるのは、取り調べや裁判が可視化され、何もかもが記録に残されているからだ。また、みな顔出しでよくしゃべる。映像や音声の素材は本当に豊富だ。しかし、何もかもが記録されているのにもかかわらず、冤罪は起こりうるということにまた、恐ろしさを覚える。


スティーヴンは、町で他者と交流せず孤立しているエイヴリー家の一員だ。若いころには逮捕歴が複数回、収監されたこともある鼻つまみ者でもある。彼のそうしたバックグラウンドが、町の人々や警察に先入観を持たせている。さらに、警察・検察は、スティーヴンの冤罪が証明されたことでメンツを潰されている。翻って私達は、果たしてそうした先入観や個人的な恨みを排除して、公正に物を見ることができるだろうか?

ジャーナリズムも問題だ。判決が下されるまでは推定無罪のはずなのに、マスコミは犯人と決め付けてセンセーショナルな報道をする。これが陪審員の心証にも影響している。日本でもこの状況は全く同じである。本当に様々なことを考えさせられる作品だ。

この事件は現在進行形であり、それが作品の話題性に拍車をかけている。シーズン2も作られることが決定しているという。

『アメリカン・ホラー・ストーリー 怪奇小屋』American Horror Story  ジェシカ・ラングの怪演を見よ!


なにはともあれ、ジェシカ・ラングである。アメホラは、シーズンごとに設定を変え、同じレギュラー陣がまったく違うキャラクターを演じる。シーズン4は、「呪いの館」「精神病棟」「魔女団」に続く第4弾で、ジェシカ・ラングはフリーク・ショー(見世物小屋)の女主人を演じる。

戦前のドイツで活躍した歌手という設定だが、いまは落ちぶれ、過去の栄光を頼りに、フリークスたちをスカウトしては、自らがショーの女王に君臨したいと願っている。フリークスを愛すると同時に、自分より人気が出ると嫉妬で怒り狂い、涙が厚化粧の頬を伝う。人間の醜さを、これほどゴージャスに演じることのできる女優はいるだろうか。

アメホラに出て来る人物(キャラクター)たちは、みな深い闇を抱え、どこかネジが外れている。ジェシカ・ラング演じる女主人自らが、過去、スナッフフィルムの犠牲になり、両足を切断されているという設定だ。だが、それぞれがなんと魅力的なことだろう。

フリークスたちは、弱いけれど強い、強いけれど弱い。キャシー・ベイツ演じるヒゲ女の存在感も圧倒的だ。ドラマを見続けているうちに、フリークスたちは次第に愛すべき存在となり、やがてフリークスとは自らの内に潜む怪物なのだと気づき始める。

アメホラゆえに、容赦ない残虐なシーンが続く。だが不思議なことに、その残虐さまでが愛おしく思えて来る。スタイリッシュなホラーなので、殺戮までが美しいのだ。そして物語は、奇妙なハッピーエンド(たぶん)を迎える。そこにあるのは、圧倒的な肯定感だ。その肯定感に包まれた、ジェシカ・ラングのラストショットは息をのむ。

4シーズンに渡り、怪演を繰り広げて来たジェシカ・ラングだが、シーズン4でアメホラは卒業したという。まことに残念だが、シーズン5「ホテル」に登場するのは、なんと世界の歌姫レディー・ガガ。連続ドラマ初出演でゴールデン・グローブ賞を受賞したというのだから、彼女もまた“怪演”を披露したに違いない。

ともすればB級に陥りがちな設定で、強烈過ぎるキャラクターたちが絡み合う複雑な物語を、伏線を回収しながら破綻することなく最後まで語り終えるシナリオは素晴らしく、だからこそ有名女優たちが怪演できるのだろう。そのクオリティの高さにも圧倒される。